文楽・志ん生師匠を語る――序の序




とうとう、名人文楽・志ん生を語ることにした。なんと大胆な挑戦だろうか。

なにを語れるのか、どうなるのか、きちんとまとめられるのか、まずは序から。


  世の中の落語ファンを対象に人気投票を行ったとすると、どちらの師匠が

  一位になるのだろうか。つまらない予想かもしれないけど、結果は互角と

  なるように思える。何故かしらというと、落語ファンであれば、おそらく

  両師匠に投票するはずだろうからです。池田大介ではないが、半分に割った

  饅頭のどちらがおいしいかと問うているようなもので、判定できないのが

  実状ですよね。「型にはまった」文楽、「天真爛漫な」志ん生。

  芸風は違うようだけど、表現方法が違うだけで、噺の神髄は同じと

  思っている。文楽師匠は30数種類のモチネタしかなく、その一つ一つが

  珠玉の出来栄えをみせている。客は同じ噺を何度聴いてもあきない。

  筋書きも言葉も一字一句違いはしない、時間さえ一秒と狂わなかったという

  練りに練られた芸なのである。

  志ん生師匠のほうは、落語そのものが人間の皮を被っているようなもので、

  言葉では伝わらないものを表現できていた。高座のそこに座っているだけで、

  落語そのものなのだ。「存在自体が落語」などといったら、なにを素人が

  と怒られるでしょうか。志ん生師匠の芸は志ん生という人間しかできない。

  文楽師匠には努力の結果なれるかもしれない。(でもこれは幻想でしょう)

  だから甲乙つけがたしということになる。


  談志師匠がこう語ったことがある。

  「文楽師匠は楽屋で志ん生の芸を聴いていて笑っていた。志ん生を

  優越感をもって聴いていたのではないだろうか。」

  というのだ。文楽師匠は御自身の芸のほうが上だと思っておられた、それで

  笑えたというのだ。

  真意は兎も角として、当席亭はこう思っている。

  文楽師匠は楽屋では志ん生師匠の高座を聴いて本当に楽しんでいたのでは

  ないだろうかと。楽屋を一歩出れば文楽という看板を背負っている身。

  楽屋の中でしか、噺を楽しむことはできなかったのではないかと。

  楽屋の中で聴衆として身を置いている文楽師匠の姿なのではないかと

  思える。

  即ち、芸を上り詰めた文楽師匠の心の中には志ん生師匠に対する優越感は

  あったとしても当然だろう。それは志ん生師匠も同じであったと思う。


  よって当然ながら芸の優劣などはありはしないのです。


  アプロ−チの仕方が違うだけなのでしょう。この違いは以下のような

  例で示せるのではないでしょうか。


  「芝浜」という噺は年末の高座で聴きたい噺の中の一つですが、この噺の

  原形といえば三木助師匠や可楽師匠のものでしょう。とくに「芝浜」といえ

  ば、三木助師匠ということになる。

  では談志師匠の「芝浜」はどうであろうか。人物描写が全く異なることに

  気づかれることでしょう。談志師匠のものは生々しく、夫婦の感情を描いて

  いる。クライマックスの夫婦の会話の場面も、心を入れ替え大勢した夫に

  対する感謝というか女の愛情みたいなものを、こう表現している…・



  「もういい。これからはあんたがいくら無茶しても大丈夫。飲んだくれて

  もとに戻っても、もういいの。

  だから飲んで。ね、飲んで。飲んでベロベロになっちゃえ!」


  こういう演出は志ん生師匠を追いかけている(いた?)談志師匠だからこそ

  なのではないだろうか。文楽師匠にはこのような表現はできないと思える。

  当席亭はこの部分を聴くたびに涙を禁じ得ない。


  飲んだくれの旦那が自分の嘘を信じて心を入れ替えて真面目になり、

  人並みの生活ができるまでになってくれた、働いてくれた。もうこれで

  女の幸せは十分なんだ。断っていた好きなお酒を、また好きなだけ飲んで

  欲しい。使用人もいるし後は女房のあたしが切り盛りするから…・

  だからベロベロになるほど飲んでいいのよ。


  こう、いわれて飲める男は少ないのではないでしょうか。


  官吏の息子に生まれ裕福な家庭に育った文楽と貧乏の中で育った志ん生の

  人間観・人生観の違いが芸に現われているということでしょう。


  では次回をお楽しみに!

   

  


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