文楽と志ん生を語る CHAP.T

 

このシリーズでは、文楽と志ん生の人物描写について、それぞれ違いをあげてみます。

この違いというのが、二人の落語の本質を語っているのかもしれません.

「富久」という噺があるので、これを題材に違いをあげてみます。

 

        富久

酒癖の悪さが元で贔屓の大店の旦那をしくじった久蔵。仕事も金も無くふらついていると、知人の旦那に

出会った。富くじを買わないかってことになり。なけなしの二分をだして買った。家に帰って、富くじは

神棚に入れて、一杯ひっかけて寝てしまう。夜中に半鐘がなって、大店の旦那のいる方面が火事。

長屋の連中に起こされて久蔵は駆けつける。風向きがかわって大店は災難から逃れた。

見舞いの酒を飲んで、寝ているところに、また半鐘がなった。今度は自分の長屋の方向が火事。

あわてて帰る久蔵。時期は真冬。筑波おろしが吹きすさんでいる。

 

夜中に二度も起こされて、長屋に駆けつける久蔵の描写では

  文楽師匠は大店の提灯をさげて、最初は威勢がいいが段々とくたびれてきて、息も絶え絶えになる

  というような運びをする。

  志ん生師匠は提灯なんかさげない。尻をからげて頬かむりをして、やぁーーーてなことで、

ふっとんでいく。

  途中で犬に吠えられたり泥濘で転んだりして、着物も破けて駆けつけるという運び。

全く、内容が異なります。

文楽師匠は登場人物を演出家として役作りをしている。

志ん生師匠は自分自身が俳優であり登場人物と同化してしまう。

どちらが良いか悪いかの問題ではない。強いていえば文楽師匠のやり方が一般的でしょうか。

文楽師匠より優れた演出をやれたなら、文楽師匠を超える噺家さんが出現します。

しかし、誰も志ん生師匠にはなれない、つまり同じ心持にはなれない。人間だれでもそうですけど。

したがって、志ん生落語は志ん生しか出来ないことになります。

歌笑師匠も同じですね。あの落語は歌笑師匠しかできない。

 

演出家・監督の文楽と役者・性格俳優の志ん生

 

これが一つの結論です。

役者は自身で役作りをしますね、演出家のいうがままにやっているわけではないでしょう.。

志ん生師匠も速記本などの書籍で研究をしています。人物の構想を練っていたのでしょうか。

志ん生師匠なりに緻密な計算があったのでしょう。

 

「火炎太鼓」の道具屋ですが。火炎太鼓はかなりの大きさですから、屋敷に持っていくときは大八車に

つんでいくべきでしょう。馬生師匠はそのようにやっていました。文楽師匠もそうでしょう。

(文楽師匠の火炎太鼓はきいたことがありませんけど)

志ん生師匠はそんなことは気にしませんというか、省略しているのでしょう。

 

 

「愛宕山」になると、文楽師匠のほうが凄みを増します。

有名な最後の場面では演出が生きます。

 

「らくだ」では、志ん生師匠ですよ。酔っ払った屑屋の迫力は志ん生の内面そのものでしょう。

酔っ払っていくプロセスは松鶴師匠でしょうけど。

談志師匠のものは志ん生師匠ですけど、兄貴分にからむところなどは、現代的なアレンジです。

 

落語を芸術の域まで引き上げた文楽、落語を自分の生き様とした志ん生でした

 


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