桂 春団治 師匠編

当代春団治師匠、一言で印象をいうと「色気のある噺家」ということになる。
男の色気というと変な表現と思われるかもしれないが、こう感じさせる噺家
も少なくなってきている。上方落語界の重鎮の一人で、きっちりとした形を
もっている噺家だ。枕はいつも同じで「あいもかわりませず、ばかばかしい
お笑いを一席…」で直ぐに噺に入る。松鶴師匠はドロドロの上方タイプ。
米朝師匠はスマートな上方タイプ。文枝師匠は「すいな(粋な)」上方
タイプ。そして春団治師匠の「色気」となる。
タイプは異なるが江戸落語に無いものを感じる。
そしてその上に枝雀師匠がおられる。型にはまらない「落語界の山頭火」。
枝雀師匠は私のライブラリーにも多くを留めている。
さて春団治師匠は、いわば枝雀師匠の対極に位置する存在ではなかろうか。
文楽師匠タイプといえるのだろうか。
下表にあるように上方落語と江戸落語ではルーツを同じにする噺が多い。
「祝いのし」は「鮑のし」のこと。「野崎詣り」は「野ざらし」のこと。
ただし内容はたいぶ異なる。
「皿屋敷」にしても番町ではなく、姫路を舞台にしている。
「代書屋」も江戸落語ではなく上方の噺である。
この噺にでてくる「がたろ」なる商売も上方での言い方だ。
小南師匠の「代書屋」も良いが、春団治師匠のも実に良い。
「代書屋」を江戸弁でやっても面白くない。やはり大阪弁で聴きたい。
この頃、上方落語に対する思いがつのる。関東育ちだけれど大阪に6年間
住んでいたことがあって、結構気に入っている。味覚もすっかり“うす味”
いまでもそうなっている。醤油スープそのもののようなソバやウドンは
食べたくないし、食べない。讃岐風のウドンが一番だし、濃い味付けは
嫌いになってしまった。
人情噺中心の江戸落語は“濃い味”で、上方落語は“薄味”なのかも。
薄いからってレベルが低いってわけじゃ勿論無い。“薄味”の“おいしさ”
は格別のものがあろう。
枝雀師匠の「落語とは緊張の緩和である」という理論(!)。
人情噺は「緊張」そのもの。でもその中に浸る心地よさ(?) 穏当に
心地いいのだろうか?なんか違うような気もする。ようわからん。
なんで「文七元結」がいいのだろうか。ようわからん。でもいいものは
いいのだから。…(-_-)
もうどうでもいいや。そもそも落語を理論付けること自体?なのだから。
春団治師匠の噺は実に心地よいし、素敵なのだし。
「春団治」という名跡は先代のイメージが強い・・
「浪花の・・」というイメージが…・(^.^)
でも当代春団治師匠。間に合った世代として嬉しい限りです。
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桂 春団治 |
野崎詣り |
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桂 春団治 |
祝いのし |
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桂 春団治 |
代書屋 |
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桂 春団治 |
子ほめ |
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桂 春団治 |
皿屋敷 |
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桂 春団治 |
高尾 |
「皿屋敷」……・・という噺
江戸では、ご存知「番町皿屋敷」の怪談もの。でもこの噺は怪談じみてはいない。
たった一枚の皿のために命を落とした「お菊さん」。実に美人だったという。
お皿の数を数えて9枚までに逃げれば大丈夫ということが解り、美人見たさに
出かけていく連中がいた。この辺の設定が落語らしい。当の「お菊さん」も
気立ての良い人で、お愛想もいいものだから、わんさと男達が見にくる。
屋敷の前には一杯飲み屋まででる始末。
そんなある晩のこと。屋敷の井戸の前は満員の盛況。「お菊さん」の出を、
待っている。時刻がきて「お菊さん」の登場となる。
例のごとく「一枚、二枚、三枚…」と皿の数を数えていく。段々「九枚」に
近づいていく。「それ逃げろ!」と一目散に逃げ出そうとするが。満員で
身動きができない。逃げるに逃げられない中。「お菊さん」の皿の枚数は
増えていく。とうとう九枚に達し、もうダメかと想った瞬間。「お菊さん」は
「十枚、十一枚・・」と数えていった。しかし何も起こらない。
「おい、お菊さん。どないなってんのや」
「明日の晩は休ませてもらいまんので、二日分数えましてん。」
「お菊さん」も連日連夜の満員盛況でさぞ疲れたのでしょうね。
それにしても、怪談話を見事にパロディーにしてしまう落語のパワーは
凄いものです。
落語の中で怪談話というと「こわくないもの」が
「皿屋敷」「お化け長屋」「ぞろぞろ」「へっつい幽霊」「地獄八景」
「こわいもの、人情噺」は
「真景累ゲ淵」「死神」「牡丹灯篭」「もう半分」「江島屋」
この「もう半分」「江島屋」は志ん生師匠の演目がある。古今亭今輔師匠も
演しられている。両師匠のは、かなり凄みのある噺だ。普段の高座が
爆笑ものや「おばあさん」ものである両師匠がこの噺を演ると本当にこわい。
志ん生師匠は怪談噺の境地を確立したという評価もある。
ただし上方噺では余り人情噺的な怪談噺は少ない。やはり笑い中心の土壌なの
だろう。……・(^!^)