桂 南喬 師匠編

いかにもごつい風貌の師匠です。先代鈴々舎馬風師匠もいかばかりかと思わせます。
初めて高座の師匠を見たお客さんは、さぞこわもての噺をするのかなと思いそうですが、実は
さにあらず、庶民的な滑稽話などを得意とする師匠です。
こういう噺家さんは、高座で会うことに無常の喜びを感じます。落語家がいた。噺家がいた。
いてくれたんだという思いがします。安堵感があるのです。この頃、寄席に行くたびに思うのですが、
「ようしまだあるぞ」ってね。末広亭がいつまで持ちこたえられるか解りませんが、「まだある」のを
確かめつつ通っております。
195?年、遊郭が消滅した時と同じように、20??年、落語が消滅することがないように
ホームページを通じて情報発信するばかりです。
南喬師匠のスタイルこそ重要なのであって、落語をこわすことを改革と思い、たんなる思い着きで
くすぐりなんぞいれるだけの落語家もどきは御免です。
なんて偉そうなことを言ってしまいましたが、オーソドックス=古典というスタイルはマンネリではなく
新鮮だという感覚を気づいている噺家さんが出てきているのを重視したいですね。
古典の中に新しきものを見つけられ感性こそが必要なのではと思います。
南喬師匠には、それが期待できるのです。大きな噺家さんになっていただけると思います。
皆様、注目していきましょうね。
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桂 南喬 |
七段目 |
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桂 南喬 |
幾代餅 |
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桂 南喬 |
茶金 |
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桂 南喬 |
百川 |
「茶金」という・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・噺
京都に「茶屋金兵衛」という目利きがいたという。いわゆる鑑定を得意とする人で、その名が知れ
渡っているとい人物なのだ。現代の「中島誠之助」というところだろうか。
ある日、清水寺の音羽の滝の茶屋で「お茶」を飲んでいた「茶金さん」、ふと手にした茶碗から水が
漏れるのに気がついた。別に茶碗が割れているわけではないのに、水がポタポタ漏れてくる。
「不思議な茶碗やなぁ。」と首をかしげた。
「茶金さん」が物をみて首をかしげただけで、何百両の値がつくと言われているので、それを見た
油売りの商人。本業の油を売らずに茶屋で「油を売っていた」というわけでして、たいした商人では
ない。それが茶金の姿を見たものだから、この茶碗が値打ちのあるものだと勘違いした。
さあそれから茶屋の主人に掛け合って無理やりに買いとってしまう。
それを高く買いとってもらおうとして、茶金さんの店にもちこんだ。ところが所詮は素焼きの茶碗。
二束三文の値打ちしかない。番頭さんでは、値打ちがわからないと思った商人、主人の茶金さんに
見てもらう。茶金さんだって、二束三文の茶碗には変わりがないのですから、その通りに言うと
音羽の滝の一件を切り出した。
「ああ。あの時の茶碗でしたか。何ね、別にひびが入っているわけでもないのに、漏れるのが
不思議なので見入っていたというわけです。」
なんだ、そんなことかとがっかりした商人。でも元手がかかっていますから、茶金さんにかけあった。
「そうですか。私の名前を買ってくださってのことですね。わかりました。それでは」
と大金で買い取った。
茶金さんが手にしたこの茶碗。どこをどう取り違えたか宮様の目にとまり、きちんとした箱に入って
その上に箱書きがついた。こうなると、ただの茶碗なのに値打ちがでてしまう。
何百両という茶碗になった。この話を聞いた商人。茶金さんに騙されたと思い、茶金さんの店に
怒鳴り込んだ。真意を聞いた商人。茶金さんから、儲けの半分を受け取った。思わぬ大金を手にした
商人、所詮は地道に稼ぐことなどできない。この商人、どこをどう思ったのか、しばらくたったある日
茶金さんの店に大きな壷を持ち込んできた。
「茶金さん。この壷は何千両という値打ちだぜ。」
「ただの壷のように見うけられます。」
「なにね、傷もないのに、水がもれるんだ。」
一攫千金を夢見るのもいいけど、欲が欲を呼ぶという、この噺。なにか教えられるところが
あるようで・・・・・・・・。