桂 南なん 師匠編

二代目 桂 小南師匠のお弟子さんです。口調に何とも言えない
特徴があり、ファンの方がさぞかし多いと聞いております。
南なん師匠でなければという方もいらしゃるそうです。
このような噺家さんが存在することは落語界にとって将来の糧に
なるのですから、未来は明るいです。小朝師匠は21世紀まで
落語を存続させたいと語っている。そうこなくちゃね。落語が
芸術だなんて言いたくないし言ってはいけないと思ってる。
志ん生師匠は落語の本をよく読んでいたそうである。聞き書きを
して本なのかもしれません。勉強をされていたのです。
では本を読んだからといって、志ん生師匠の芸ができるわけではない。
解釈の違いがあるし、やり手の感性もある。演劇もそうかもしれない
けど、演劇は正に演じている。演じ手のイメージが入っている。
落語も演じ手のイメージは入っているが、勝負は聞き手の脳裏の中
にある。高座にイメージはない。なにしろ手ぬぐいと扇子を持った
和服の男が喋っているだけの高座なのですから。高座には何も無い。
背景も無ければ小道具も無い。客は見ているだけでは何のイメージも
わかないのである。ここが演劇などのジャンルと決定的に異なる点
なのだ。「石町の大店の若旦那が吉原の角海老で遊んでいる。」
この表現だけで客はイメージしなければならない。脳裏に光景を
浮かべなければいけない。できなければ客の負けというわけ。
できない客は聞き取れるけど理解できない日本語を聞いているに
すぎなくなる。辛い状態になる。歌舞伎ならば言葉が理解できなく
ても様式美を楽しむ事はできるが、落語に様式美は無い。
あるのは噺家の個性だけ。だから誰も志ん生になれないし、文楽にも
なれない。もちろん談志にもなれない。
たとえば、噺家の物まねをやる人がいて酷似しているとする。
同じ声で同じトーンで同じ言葉で内容で語ったとしよう。
客は満足しますか。しませんでしょ。何故かしら? ここが考え
どころです。
そのような意味で南なん師匠は貴重ですよ。頑張ってくださいな。
期待しております。
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桂 南なん |
壺算 |
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桂 南なん |
初天神 |
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桂 南なん |
置どろ |
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桂 南なん |
将棋の殿様 |
「壷算」………………………・・という噺
おかしな算数で笑わせる話です。ちょっとした錯覚を利用した噺です。
長屋住まいの少しのんびりとした男が奥方に頼まれて水を入れる壷を買いに
行く事になる。水道の無い昔は飲み水や炊事の水を大きな壷に入れた。
時代劇などでご覧になったでしょう。壷だから焼き物でして壊れたので
買い換えるというわけ。奥方は気の利いた人に付いてもらって買い物を安く
あげようと算段した。買い物上手のこの人、一計を案じて店にいく。
奥方は二か入りの壷を買うように頼んだ。しかし注文したのは一か入りの壷。
定価3円50銭を3円に値引きして買う。長屋に二人で担いで持ち帰るふりを
して、また店に戻ってくる。実は二か入りの壷を買うのを間違えたと言い訳
して、二か入りの壷の値段を、一か入りの二倍の定価7円ではなく、買い値の
二倍の6円で買う事に成功する。ここで支払いの段になり、こう計算をする。
「買った壷の値段が3円、これを戻すのだから、3円の価値。そしてさっき
支払ったお金を自分達に戻してもらい、改めて追加の3円として払う。
しめて6円となる。という算数からくり。これに店の番頭が引っかけられて
からくりに気が付かない。この辺のやり取りが実に面白い。
噺の中で、こういう経済学のやりとりが、他にも「花見酒」などがある。
「初天神」………………………・・という噺
初席で高座にかけられる噺です。父親と男の子供が連れ立って「初天神」に
参拝にいくと風景を描いた噺です。参道には屋台が出ているのは現代と同じで、
昔も今も子供心も同じ。あれやこれやと買って欲しいのが子供です。
飴玉を欲しがったり、みたらし団子を欲しがったり、凧を欲しがったりする。
飴玉を買う場面では、手をベトベトにして次々に品定めするものだから、
売っているほうはたまったものじゃない。みたらし団子屋では、蜜だけを
なめちゃって、また、蜜壷に入れ直すというチャッカリぶり。
また、子供に凧を買ってやるが、父親が凧上げに夢中になってしまう姿。
などなど、ほのぼのとした噺ですね。初席のことで短い噺ですが、高座に
かける噺家さんは多いので聴けるチャンスが多いと思うわけで、細かな
説明は省きましょう。