落語奇談「八百屋政談」編

「はい。」
お静さんの出産の時期が近づいていた。
なにしろ席亭さんには初体験だし、なによりも子供の出産場面に立ち会うことなど
夢にも思っていなかったのだから、あわてふためいていた。
何も手につかない様子をみて近所の奥さん達が手伝ってくれていた。
しばらくすると、奥の部屋の方で産声がした。
「席亭さん、やったね。産まれたようだよ。」と奥さんたち。
「はい。有り難う御座います。…………………」
言い難い感動が席亭さんを襲ってきた。子供をもてるなんて信じられなかったのである。
「席亭さん。女の子だよ。はらごらんな。」
目の前に産婆さんに抱かれた赤ちゃんがいた。真っ赤な顔をしたちっぽけな人間が
そこにいた。この子が自分の子なのだという実感はまだ湧いてこなかった。
「席亭さん、抱いたらぁ。」
「とんでもない、こわしてしまいますよ。」
「あはぁははぁ。こわれたりしないわよ。大丈夫だから抱いてあげなさいよ。」
「そうですか。じゃぁ。」
そーーーぅと、両手に子供を抱いた。
「どう、席亭さん。お気持ちは?」
「はい。どっちに似ていますか?」
「そうね。目鼻立ちは席亭さんかしらね。女の子はお父さん似になるから。でも顔の
輪郭はお静さんよね。顎の形はそっくりよ。」
「そうですか。私に似てるのですか。気の毒に。」
「何言ってるのよ。席亭さん。結構良い男じゃない。」
「ありがとう。さぁ、皆さん。いろいろお世話になりました。勝っあんのところに仕出しを
頼んでありますので、今日は長屋の皆さんでわっとやって下さい。お酒もありますので
旦那さんにもきてもらって下さいな。」
「そうかい。じゃぁ皆さん、ご馳走になりましょうよ。」
「どうぞ。」
長屋の皆さんは席亭さんの家の離れにある部屋に行った。
席亭さん、子供を抱いてね、お静さんの寝ている奥の部屋に入った。
「お静さん、よくやってくれたね。ご苦労様。」
「名前をつけてくださいな。」
「はい。前から考えていた名前がるのです。」
「何ですか?」
「香と言います。」
「香dすか?いい名前ですこと・」
「そう思いますか?」
「はい。」
「では、香ということにします。」
「お香ちゃんですね。」
「はい。」
「席亭さん。…………………………・・」
「ありがと…・ほんとにありがと……・・お疲れ様…・・うん」
子供をお静さんの横に寝かせてやっているとね、お静さんはまた、ぐっすりと寝て
しまった。お産というのは女性にとって命をかけた挑戦のようだ。
席亭さんは二人の寝顔をみて、深い安堵を抱いていた。
一人になって、お酒をちびりちびりやりながら、できるだけ長くいたいという思いが胸を
よぎっていた。床に入ってからもなんとなく寝付けない席亭さんであった。
よく朝早くになって………・・
「席亭さん、とうとうやりましたね。」
「おやまあ、八百屋さんじゃないですか。来てくれたのですか。」
この八百屋さんは、この長屋を売り歩いている人で六十がらみの年配であった。
おばあさんと二人暮しでしてね、新鮮な野菜を安くいただいていた。
「奥様にこれを食べさせてあげて下さい。」と、唐茄子を差し出した。
「唐茄子は産後にはいいと聞いております。なんといっても栄養をつけなくては。」
「有り難う御座います。喜んで戴きます。」
「席亭さんは唐茄子の料理の仕方を知っているのですか?」
「はい。秘策がありますよ。八百屋さんも食べたことがない料理を作りましょう。」
「ほう。そうですか。それは楽しみですねぇ。ではこれで。」
八百屋さん、荷を担いで出ていった。
席亭さんは勝っあんのところに行って、子供が産まれたことを教えてあげようと
出かけた。なにしろ妹のお崎さんにも連絡することができなかったのだから。
(携帯電話なんてしろものはない時代ですものね。)
すっかり日が高くなっておりまして、ジリジリと照りつけている。
すると、道の向こうから腰をふらつかせながらヨロヨロと荷を担ぎながら歩いてくる
八百屋さんが来る。年は若いが色の白い男であった。
担ぎ商人が色白というのはおかしいので、おかしいなとおもっていたが、席亭さんは
思い当たる節があった。
「ははぁ。どこかの大店の若旦那で、勘当された道楽者てところかな。」
などと思っていた。
そのうちにね、その若者が荷の重さに耐えられなかったのか、道端に倒れて荷を
ぶちまけてしまった。どうやら擦り傷などをこしらえているようで、ぜいぜい言いながら
うずくまっていた。
「どうしたの?若けぇ氏。」
「はぁ・はぁ。………・はぁ。はぁ………・」
「どうやら、お前さん。八百屋さんじゃあないようだね。お店者でしょ。色は白いし、
体も華奢だしね。吉原通いが過ぎてあげくのはてに、勘当。八百屋の親戚筋に
預けられて、少しは苦労させようという・・ところだろ。」
「はい。はぁ、はぁ…・」
「やっぱりそうかい。まぁ、若い時にはそんなこともあるよ。やってしまったことは
しょうがない。辛抱して勘当を許してもらうことだよ。」
「はい。」
「初商いかい?」
「ええ。」
「そうだろ。それじゃ、その荷はちょいときついねぇ。なんとかしたいねぇこりゃ・・」
するとね、そこに、これから行こうとしていたとこのね、勝っあんが通りががった。
「あれっ!勝っあんじゃないの。丁度いいとこで出合ったねぇこりゃ。」
「席亭さん!なにね、お子さんが生まれたってぇことが耳に入りましてね、今から
伺おうかと…・・」
「そうですか。有り難う。お蔭様で女の子が産まれましてねぇ。」
「おめでとうございます。」
「はい。……・そんなことはともかく、勝っあん。唐茄子を買っていってくれないか。」
「唐茄子?……・これですか?」
「そうだよ。理由は後で話すけど、この若いものを助けると思って買ってやってよ。」
「席亭さん、勘弁してもらいたいねぇ。あっしの稼業は魚屋だよ。生きがいいのが
売り物の稼業だよ。唐茄子みてぇな間抜けな物を食えるかてんだ。」
「おや、そうかい。そんなことを言っていいのかい。」
「悪いかい?」
「勝っあんは、私と向こうの世界に行ったことは覚えているよね。」
「なんだい、いきなり・・」
「あっちであったことは覚えているかい。」
「まるっきり覚えていないんだそれが。」
「そうだろね。(記憶は消されているんだ)それはいいんだけど。それじゃぁ、これから
説明するから聴きなよ。」
「ふーーん。そうかい。」
「折角来たんだから、食べたことがないものを食べさせてあげようとね。店に寄ってね、
コース料理などを食べた後に、デザートにね、パンプキンパイというものをだすように
頼んだんだ。飲む方の勝っあんにはちと苦手かなと…・」
「パンプキンパイ?なんだいそりゃ。」
「もう少し聞いてよ。最初は不思議そうな顔をしてたんだけど、おいしいからたべてよ。
というとね、おそるおそる口にした。よほどおいしかったのだとおもうよ。勝っあん
うめぇうめぇとね、十個くらい食べちゃった。甘いのにね。」
「へーーそうかい。甘めぇんだろ。そんなものは御免こうむるんだけどなぁ。」
「勝っあんだけじゃなく、お崎さんもお替りしたくらいで…・」
「へぇ…」
「そのパンプキンパイというのは、実は唐茄子でできたものなんだよ。」
「えぅ。そうかい。」
席亭さん一声調子を上げると、
「それなのに、この唐茄子が食えない買えないという実にどうも……」
「ちょぅ、ちょっと待ってくれ、解った解った買うよ、買う。」
「そうかい。なにやら無理を言ってしまったような…・・悪かったね。勝っあん」
「席亭さんも人が悪いよ。何もここでそんなことまで持ち出さなくてもいいのに。」
「五つくらいもっていってよ。」
「いいけど。これあから席亭さんのとこに行く途中なんで。」
「じゃ、勝っあん。これを家に届けておくれよ。後でおいしいものを食べさせてあげるよ。」
「いいよ。じゃぁ勘定だ。一つ二文だな。じゃあ十文だ。はいよ。」
「勝っあん、すまねえなぁ。後で礼はするよ。」
「じゃ、待ってるよ。」
「おい!そこに行くのは与太郎さんじゃあないかい?」
「おう、これは席亭さんじゃないか…・・なんでここにいるんだ。」
「ちょうどいいとこに来た。唐茄子をかっていってくれないか。」
「唐茄子ってなんだ?」
「かぼちゃだよ。」
「あの黄色い奴かぁ。」
「そうだよ。」
「いいけど、お銭がないんだ。」
「一つ二文だ。六つ買ってよ。」
「六つというと、…・うんと………・今何時だい?」
「八つだよ。」
「銭は細かいよ。九の十の十一、十二と、これでいいね。」
(与太郎さん、お銭がないので、時そば、決め込もうって気だな。)
「あい、いいよ。お買い上げ有り難う御座います。またのご贔屓を…」
「席亭さん、あたい儲かったね。」
「いんだ。持っていきな。」
「あいよ。」
「与太郎さん、夕方になったら勝っあんの店に来てよ。ご馳走するよ。」
「あいよ。」
与太郎さんは行ってしまった。
「おい、若けぇ氏、大丈夫かい。」
「はい。もう大丈夫です。」
「荷も大分軽くなったね。残りが二つだ。前後に振り分ければ担げるだろ。」
「はい。」
「これが、売り溜めだよ。後二つだ、全部売ってしまうんだよ。」
「はい。お世話になりました。席亭さん。なんとかやってみます。」
若旦那は、それでも、腰をふらつかせながらも、天秤を担ぐとね、なにやら売り声らしきも
のを言いながら歩いて行った。
「あの若旦那も、もう少し辛抱すれば勘当が許されるだろう。」
席亭さん、若旦那の後ろ姿を見送りながら、そう思った。
勝っあんのお店に向かって歩いていくと向こうから例の年配の八百屋さんがやってきた。
「あれ、また会いましたね。」
「これはこれは、席亭さん・」
「もう昼時ですけど、食事は済まされたのですか?」
「いえまだで、この先の長屋をながしますので、そこで弁当を使おうかと。」
「そうですか。私は勝っあんの店に行く所なんです。ちょうとした趣向がありますので、
夕方にでも寄って下さいな。」
「あ、そうですか。お祝いごとでしょう。喜んで行かせてもらいます。」
「では、お待ちしております。」
席亭さんと分かれた八百屋さんは長屋に入っていった。
五軒目の家の前を通ると中から呼びとめられた。
おかみさんらしい人が出てきた。
「もし。八百屋さん。白菜はいくらですか?」
「はい。有り難う御座います。一つ3文でございます。」
「そうですか。では一つくださいな。」
「はい。よろしいのをお選び下さい。」
「では、これを。お代はこれで。」
「頂戴いたします。」
「あのぉ。ここで弁当を遣わせていただいてよろしいでしょうか?」
「はい。どうぞ。今、お茶を持ってまいります。」
八百屋さん、軒下に腰をかけて、弁当を食べ始めた。
おかみさんはね、白菜を持って家に入ると、中から子供が出てきて、白菜を見ると
むしゃむしゃと食べ始めた。生の白菜を食べているのだ。変だなと思っていると。
「おっかぁ、米の飯が食いたいよぉ。あのおじさんの御飯がたべたいよう。」と泣いて
せがんでいる。
「我慢をおし。いい子だから、我慢をおし。………八百屋さん、すいませんが、あちらに
行って食べて下さいませんか。」
見かねてね、八百屋さん、中に入って、
「どうされました。子供さん、えらくお腹が空いているようですが。」
「はい。もう三日も何も食べさせていないものですから。」
「三日もですか?」
「はい。主人が長の患いで寝込んでおりまして。暮しに困っております。
どうか、別の場所でおたべ下さい。」
「そうですか。では、この弁当をどうぞ子供さんにあげて下さい。私はかまいません。
もう年ですので、どうせ全部食べ切れやしないのですから。」
「おっかあ。いいのかい?」
「おお。坊やいいんだよ。」
子供は喜んで弁当に手を伸ばして受け取るとガツガツと食べ始めた。
「子供さんが、三日食べていないということは、おかみさんは、もっと……・」
「おはずかしいところを……・」
「おかみさんは武家の出ではないですか?」
「主人は浪浪の身でございます。」
「そうですか。お気の毒なことで……・・あのう、甚だ失礼とは存じますが、しがない
八百屋ですが今日一日の売りだめがここにあります。少ないです。八百屋が一日
働いてもせいぜい、この程度でして。どうぞこれで、皆さんでなにか美味しいものでも
食べて下さいな。ねっ。そうして下さい。」
「いえ。いけません。そんな事を成されてはいけません。受け取れません。これ以上
お金なんて戴けません。どうぞ…・どうぞ。」
「いいんです。私はなんとでもなります。置いて行きますよ。」
八百屋さん、お金を投げつけるようにしてね、出て行った。
別に施しをしようとおもったわけではない。やもたてもいられない気持ちになっていた。
八百屋さんは家に戻ると女房にこのことを話した。
「まあ、良いことをなされました。お金のことはなんとでもなります。それがこの婆の仕事
ですわな。」
「明日もまた精を出して働くよ。…・・そうだ今日、席亭さんにお会いしてね。夕方に
魚屋の勝っあんの所に、ご馳走に誘われたんだ。一緒に行かないか?」
「そうですか。席亭さんに、お子さんが生まれたということは聞いております。早速
お祝いを申し上げることにしましょう。」
八百屋さん夫婦は勝っあんのところに出かけていった。
その頃、席亭さんは勝っあんのところで、唐茄子を材料にパンプキンパイを作ろうと
していた。
「おい、若けぇ氏、これあから美味いもんをつくってやるから楽しみにしてくれよ。」
「へぇ、何を作ってくださるのですか?」
「できてからの、お楽しみ、細工はりゅうりゅう仕上げをごろうじろってとこだよ。」
席亭さん、お崎さんの使っている台所に入ってね、料理を作り始めた。
全ての材料が揃っているわけではないが、なんとか体裁をつけてパンプキンパイもどき
ができた。
「さあ、若けぇ氏できたぞ!。そっちもそろそろ上がる頃だろ。片づけが終わったら、
こっち来ないか。」
「へーーーい。」
「席亭さん、これはなんですか?」
「パンプキンパイというものだよ。」
「パンプ・・キン…パイ? なんですか?」
「唐茄子で作ったお菓子だよ。」
「唐茄子ですか? そんなふうにみえないけど。」
「大丈夫だよ。毒にはならないから、一口食べてみなさいよ。」
若けぇ氏は恐る恐るながら口にした。
「うまいですよ。甘くて。こんなもの食べたことないですよ。」
「そりゃそうだよ。」
「ただいま。今戻りましたよ。席亭さん。」
「ああこれは、勝っあんにお崎さん。待ってましたよ。」
「あれぇ、おめぇたちなにやってるんだい?」
「はい。席亭さんに手作りのお菓子をご馳走になっておりました。」
「ほぉーーう…・・手作りのねぇ。」
「そうなんですよ。勝っあん達もお一つどうですか?」
「なんですこれは?」
「パンプキンパイというお菓子です。」
「パンプキンパイ? これがそうなんですか?」
「少し違うのですが、まあこんなもんでしょう。召し上がれな。」
「甘めぇもんですね。酒のつまみにはちょいと。」
「そりゃあそうですよ。いける口の勝っあんは、ちょいと荷でしょう。」
「あたしにはおいしいわよ。もう少し戴くわ。」
「どうぞ。どうぞ若旦那のお陰で材料は一杯あったのでね、かなり作っちゃったので、
遠慮なくどうぞ。」
「おい、お前らいい加減にして風呂に行ってな、二階に上がって寝ちまいな。」
「あっと、これ持っていってよ。夜食にどうぞ。」
「有り難う御座います。では旦那さん、おかみさん。これで休ませていただきます。」
「あいよ。」
「こんばんわ。」
「おう、お崎。誰か来たようだぜ。」
「どちらさまですか?」
「八百屋で御座います。お言葉に甘えましてお邪魔いたしました。」
「勝っあん、私が昼間お会いしましてね。お呼びしたんですが。…・・」
「ああ、そうですかい。どうぞお入り下さいな。」
「はい。こんばんわ。席亭さん。この度はおめでとう御座います。」
「ご丁寧にどうも。さあさ、こちらにいらして下さい。」
「はい。うちの家内でございます。」
「席亭さん、始めまして。この度はおめでとう御座います。」
「はい。はい。どうぞこちらへ。」
「席亭さん。いるかぁ…・?」
「あれ、また誰か来たよ。どちらさまで。」
「うん。与太郎さんですよ。昼間な、席亭さんにな。唐茄子持って夕方な。勝っあんのとこ
にな、来るようにな。言われたんだな。…んでな。来たんだな。」
「勝っあん。与太郎さんが来てくれたよ。」
「まあ。どうぞ与太郎さん。こちらにお入りになって。」
「これは。おかみさんですか?こんばんわ。」
「はい。こんばんわ。」
「さあ与太郎さん、こっちに来てお食べよ。」
「うまそうだな。これがパンプキンパイかい?」
「どうして知ってるの?」
「与太郎さんだからだな。」
「よくわかんないよ。まあいいか。」
「うまいなあこれは。もっとおくれよ。」
「八百屋さんも遠慮なく食べて下さいね。」
「はい。先程から戴いております。」
皆さんは、しばらくの間、飲んだり食べたりしながら時を過ごした。
「さてと、皆さんこの辺でお開きといたしませんか。」
「そうですね、席亭さん。だいぶ時を過ごしましたから、この辺で…」
「八百屋さん、与太郎さんには、おみやがありますから、持って行って下さいね。
もちろん、勝っあん、お崎さんにも用意してありますよ。」
「席亭さん、ありがとない。」
「ではこれで。」
席亭さん達は、それぞれが家路についたのであった。
「ただ今、お静さん。」
「あら、遅かったじゃないの。」
お静さんは、布団の中ではあったが、元気そうだった。
「勝っあん達が言ってたのだけど、席亭さんがご馳走つくって待ってるんだって。
何を作ってあげたのよ。」
「これだよ。」
「まあ、何これ。」
「お静さんも食べたことがあるんだけど忘れてしまったかもしれないな。」
「お菓子ですね、これは。」
「そう。お食べよ。皆さんもおいしいって言ってたんだよ。」
「パンプキンパイでしょ。」
「どうして知ってるの?」
「与太郎さんも知っていたでしょ。」
「その通りだよ。不思議だね。」
「うふふ…………………・・」
「食べたいから、背中を起こして下さらない。」
「はい。」
席亭さん、お静さんの上体を起こしてあげて、後ろから抱きかかえるようにして座った。
お静さんの背中の温もりが胸に伝わってきた。小さな背中であった。傍らの布団で
眠っている子供の寝顔を見ながら、愛しい気持ちが湧きあがってきた。
席亭さんは、パンプキンパイをお静さんの胸の前に持っていって食べさせてあげた。
「おいしいわ。もっと頂戴。」
「はい。どうぞ。」
お静さんはケーキを三つも食べた。
「もうお腹が一杯よ。もた明日に戴きます。」
「そう。少し休んだほうがいいね。」
「うん。」
席亭さんはお静さんを横たえると布団をかけてあげて。隣の部屋にいってその晩は
眠りについた。
翌朝、けたたましく戸を叩く音で目が覚めた。戸を開けてみるとそこには八百屋さんが
立っていた。
「席亭さん大変なことになってしまいました。」
「どうされました?」
「夕べ話しました長屋の親子なんですが、あの後に子供を残して首を吊っっているのを
長屋の連中が発見したというんで……」
「えっ、なんでまあそんなことに。」
「いえね、いつもの朝商いにいったんですが、夕べのことが気になったのでね、長屋に
行ったんです。するとね、例の親子がそんなことになっていて大騒ぎなんで…
長屋の人に訳を聞いてみると、あたしがお金を放り込むように置いていった後にね、
随分喜んでいたんだそうです。久しぶりに暖かいものが食べられる、味噌汁もつくろう
ねと…楽しみにしていたんだそうで…・そこにね、欲張りの因業家主がやってきて、何
だこの金は、どうしたんだ。溜まっている家賃に貰っていくとね、……・おかみさんは
このお金は違うんだ、親切な八百屋さんが置いていってくれたもので、家賃のほうは
なんとかします。どうか持って行かないでくれと……土下座して頼んだんだそうで。
でもねぇ、この家主は引ったくるように取上げていったそうなんで…・
世をはかなんだのでしょうねぇ、子供を残して父親と母親は首を……・
あたしが金なんざやらなけりゃこんなことには…・・腹が立ってね、その家主の家に
飛び込んで滅茶苦茶にしてやろうとね…・・そしたらもう済んだって、長屋の連中もね
気持ちは同じで、皆で寄ってたかって、もう滅茶苦茶でね、家主一家は逃げ出して」
「解ったよ。八百屋さん、事情は解った。うん、八百屋さん貴方のせいじゃないよ。
それより残された子供が心配だよ。どうしてるの?」
「はい。長屋には火消し稼業の兄いがいまして、子供達を引き取るってことに・・」
「八百屋さん、その兄いのところに行きましょう。」
「はい。」
二人が駆けつけてみると、兄いはるすで、おかみさんがいた。
「へい。こんちは。」
「はい。どなた?……あら、ねぇ八百屋さんでしょ。お金を置いていってくれたあの
八百屋さんでしょ。そうでしょ。」
「はい。その八百屋です。」
「よくやって下さいました。長屋のものは皆、有り難いお方だと……・・
こんなことになって辛いでしょうけど八百屋さんのせいじゃないわよ。」
「はい。そういって下さると………・」
「ごめんなさいな。」
「どちら様ですか?」
「はい。此の方は席亭さんと申しまして…・」
「席亭さんですか?はぁ……・・」
「はい。実は残された子供さんにお会いしたくて……」
「そうですか。今、主人が連れて出ておりますが、そろそろ帰ってくる頃だと。」
「おい。今帰った。」
「あら帰ってきたわ。おかえりなさい。…」
「あいよ。うーーん。どちら様だい?」
「ほらあんた。例の八百屋さんだよう。」
「えぅ、あの八百屋さんですか。お初にお目にかかります。め組で纏持ちをしておりやす、
辰というけちな野郎です。どうぞお見知り置きを願いたく……」
「まあまあ、辰兄い固いことは抜きにして下さい。…・はい、申し遅れいたしましたが、
私は席亭といいまして、魚屋の勝っあんとは親しくして戴いております。…」
「はい、そうですか。知っておりやす。稽古屋のお静師匠の旦那さんでしょ。」
「これはこれは、よくおわかりで。」
「おい子供達、腹が空いただろ。飯食っちましな。」
「あいよ、こっちに用意してあるからお食べ。おいしくないだろうけど、我慢してね。」
「八百屋さん。おれっちの暮しは見ての通りでね。けしていいとはいえねえ。火消し稼業
はね、威勢がいいが煽りを食らって落ちりゃ、こっちは黒こげ。後の女房の暮しはどう
にでもなるが、この子供達はねえ。三度三度といいてえが、三度に一度へたすると
三度に二度、満足に食べさせることもできなくなる……それが気になってねえ。
俺達にはまだ子供はいねえんだ。………・八百屋さん、おいらと兄弟分になって
くれねえかい。いやね、金を貸してくれとかいうんじゃないんだ。病に臥せった時なん
ざ、おうどうだい兄貴、…・弟じゃねえか心配いらねえよ。で、いいじゃないか。ね、
兄弟分になってくれねえか。」
「はい。よろしゅう御座います。兄さんの弟分ということで…・」
「弟分?冗談じゃねえよ。俺っちの方が歳は下だよ。そうだろ、兄さん…」
「決まりました。では私が固めの杯の立ち会いをいたしましょう。」
「席亭さん。ありがとう。お願い申し上げます。」
「では。……」
二人はこれで兄弟分ということになった。
「ところで、兄さん。頼みがあるんだ。」
「おやま、随分と早い頼みですね。」
「頼みというのは他じゃないんだ。実はね、この兄弟の子供達のどちらか一人を、
引き取ってもらいてえということなんだ…・」
「えっ。」
「二人じゃ無理なんだ。一人ならなんとかなる。」
「はい。解りました。私たち夫婦にも子供がおりません。歳の順からいけば先に逝くのは
私としても、それまでの間は面倒を見させて戴きます。でもこんな八百屋ふぜいで
よろしいんでしょうか。」
「立派なもんよ!」
「あのう、一人とはいわずに、二人を引き取らせて下さい。兄弟が離れ離れになるのは
可哀相です。」
「二人とも?……兄さんありがと…・あとの面倒は俺がみる。約束する。」
「あのう、陰ながらこの席亭も……・」
「席亭さん、ありがとね。頼みます。」
「はい。」
早くして親を亡くした子供は利口になります。八百屋さんの側に寄り添って、
「おとっつあん!」
席亭さんは思わず涙ぐんでしまった。
「そうだ。子供達においしい物が用意してあるんです。辰兄い、ひとっ走り私の家に
行って、取ってきてはくれませんか。」
「合点だ。善は急げ。さっそくいまから。」
暫くすると、辰兄いが戻ってきた。
「席亭さん。これですかい?」
「はい。それです。」
「何か、お崎さんという人が来ていて、訳を話したら、これを持たせてくれてね。」
「ああそうですか。うん、これは辰兄さん達の分ですからどうぞ。」
「あっしらにも戴けるんで。有り難う御座います。」
「さあ子供達、好きなだけ食べなさい。」
「席亭さん。おいしいよ。こんなの食べたことないよ。」
「そうかい、遠慮しなくていいからね。」
「辰兄さん達はどうですか?」
「うめえねこりゃあ。なんていう菓子ですか?」
「パンプキンパイというものです。」
「?……………」
「辰っあん!」
「なんだい兄さん。」
「日を改めて吉日に新しい着物を持って迎えに参ります。今日はひとまずこれで。」
「兄さん。祝い物を用意して待っております。」
「八百屋さん。私には仏壇を用意させて下さいな。」
「お二人とも有り難う御座います。」
席亭さんは辰兄いの所を辞するとね、家に戻ろうと道を歩いていた。
向こうから、唐茄子を担いで売り声をあげている若旦那がやってきた。
「若旦那。商売に身が入りましたようですね。」
「ああこれは席亭さん、いつぞやはどうも。」
「その後はどう?」
「はい。一生懸命やっております。」
「そのようですね。まあそのうちに、勘当も解けますよ。頑張って下さい。」
「はい。……唐茄子や唐茄子。…………………・・」
若旦那は行ってしまった。
もうすぐ家に着こうかという時にね、いきなり強い光りが降りてきて・・
「席亭さん。お迎えに参りました。」
「ガイドさん!………帰らなくてはいけないのですか?」
「はい。時間になりました。」
「私に子供ができたのは知っているのですか?」
「はい。もちろん。帰りたくないのは理解できますが仕方がないのです。」
「そう……うん……・・解ります。解りますけど……・・お静と子供に別れを言ってからでは
いけませんか?」
「はい。お待ちいたします。でも長くはいけません。」
「はい。解っております。」
席亭さんは家の中に入って行った。
「お静さん。ただ今帰ったよ。」
「お帰りなさい。大変だったわね。事情は辰さんという方から聞きました。さっきまで
お崎が来てくれていたんです。」
「香ちゃんを抱かせてくれないか。」
「いいですよ。どうぞ。そっとね。」
席亭さんの腕の中に小さな人間が抱かれて寝ていた。あまりにも小さく、軽かった。
この子の末裔が佃島の静香ちゃんということになるのか。
いつまでも腕の中に抱いていたかった。しかしそうもいかないことは解っていた。
席亭さん、香ちゃんをお静さんに渡すと、三尺はなれた畳の上に正座をして、手をひざの前について、こう口上を述べた。
「手前甚だ勝手ながら只今を持ちまして、心惜しゅうなれど。お別れと相成りました。
静御前におかれましては、一日も早く全快なされること、また香姫におかれましては、
日々健やかにお過ごしなされんことを、陰ながらお祈り申し上げる次第にござりまする
下がりまして手前におきましては一日も早く参上いたすつもりで御座います。
それまで、何とぞ大過なく過ごされますように。……」
「えっ、お帰りになられるのですか?」
「はい。やむをえないのです。」
「そうですか。仕方がないわよね、いつものことなんですもの。」
「この度ばかりは辛らいのです。……でも…・・」
「大丈夫です。沢山のお金を戴きましたから、暮らし向きには困りません。それにもう
一人で席亭さんをお待ちしていることもなくなりました。香ちゃんを大事に育てます。
安心して下さい。」
席亭さん、正座したままずずずいーーと襖のところまで下がりましてね。
「ではこれにて、おさらばで御座います。これにて…・・(ちょーーん)・・お開きとあい
なりまする……・・」
その瞬間、まばゆい光りが降りてきて席亭さんは元の世界へと帰っていった。
「席亭さん、お辛いでしょうね。」
「えっ、おやまあガイドさんですか。あなたのせいではありませんよ。」
「席亭さん、実はこれから病院にお連れいたします。」
「病院に?」
「はい。ばあや様がお倒れなりました。」
「ばあやがですか?様態は?」
「はい。病にかかっている訳ではないのですが、だいぶ体が弱ってきておられるという
ことです。」
「老衰ということですか?」
「ええまあ。」
ばあやさんが天寿を全うしようとしている。おそらくは、ばあやさんの思いが通じて
ガイドさんが迎えに来たのであろう。席亭さんの思いは、ばあやさんへと変っていった。
時空を超える空間のよじれの中で席亭さんは、生まれ出る者、死に行く者、そして…
輪廻転生の時空を感じ取っていたのである。