落語と音楽について考える

 


落語が生まれて三百年と言われていますが、開祖は誰かは別にしても落語という芸がどのようにして伝承されて

きたのでしょうか。

一子相伝という形で伝承されてきた芸能が多くあります。能・狂言・歌舞伎などは代表例でしょう。

師匠の芸を見て覚える。口伝で覚える。そこにマニュアルなんてものは存在しておりません。

親から子へ、師匠から弟子へと伝承されてきました。

幾分かの書き物は存在していたのでしょうが、芸能全体を伝えきるものではありません。

芸能を含めて技術というものは全てそのようなものでした。つい近年まではということでしょう。

職人の技はマニュアルではけして継承できない。

時間と受け継ぐ人材にかかわってきます。

IT技術の目覚しい進歩により職人の技を機械で具現化していく挑戦は続けられていますが、完全にカバーできる

状況にはありません。

 

落語という芸も同様にして継承されてきております。

ビデオもテープレコーダーもない時代ですから、師匠の芸を真似ることで落語を覚えていきます。

師匠は弟子の前で三回、落語をやって教える。弟子は耳で聴いて目でみて覚えて。師匠の前でやってみなければ

ならない。

三回聞いて覚えるというのは至難の業でしょうが、そのようして継承してきました。

厳しい世界ですね。誰でもできるというものではないでしょう。

志ん朝、談志、円楽、柳朝、皆んなそのようにして落語家になっていきました。

人から人にということになりますと、受け手の人の資質が問題になります。

これは落語に限ったことではないでしょうね。

落語はなにも自分の師匠から教わるとは限りません。他の師匠のところに行って話を教わるということが多く

あります。

話を教わって許可を貰って初めて高座でその落語ができるというのが本筋となります。

歌舞伎なども「型」というものがありますから誰のもので演じるのかが重要です。

落語「淀五郎」や「中村仲蔵」などではそのあたりの事情が語られています。

 

ところで昨今の落語修行事情はどうなのでしょうか。

大学の落語研究会出身の入門者が多くなっております。

高学歴が進んでいる現代では新しい噺家さんは大学出身という人が多いはずです。

彼らにはメディアという手段がありますね。ビデオ、テープ、DVDなどを見て、亡くなった師匠達の高座の映像をみて

勉強することが可能な時代となってしまいました。

映画・音楽・演劇など多くのコンテンツが記録されております中の一つのジャンルとして落語が捉えられる時代に

なってきたのです。

記録本・速記本でしか古い噺を勉強することが出来なかった時代ではなくなってしまった。

これは落語という芸にとって大きな環境の変化となります。

落語全集や速記本から想像力を働かせて噺をこしらえ上げるようなアプローチをしなくなってしまった。

米朝師匠の業績はこの辺にあります。今これができる噺家は何人いるのでしょう。

五代目 古今亭志ん生は落語全集を四六時中手元において調べていたのは有名なエピソードです。

五代目 古今亭志ん生は緻密に計算していたわけですね。

 

その結果として誰がやってもそこそこの落語ができるけれども、演者の個性はなくなってきたようで。

だから落語がつまらなくなってきていると感じる人が多い。落語がつまらないのではなく、やる者がつまらないという

ことなのですけど。

 

落語が多くのコンテンツの一つになっているということは、落語が映画・音楽などと混在した形で生きていくことに

なってくるということになる。志らく師匠などは「シネマ落語」などと銘打って新しい落語の挑戦しているけれども、

落語も音楽や映画とセッションしていくような面がでてこなくてはいけません。

「音曲落語」などというものとは異質な落語になってくると思われます。

といっても、スクリーンの前で落語をやるとか、バンドをバックに落語をやるなんていうことではありません。

落語はあくまでもバーチャルなものですから、スクリーンやBGMは客の頭の中にあるのです。

ここをはずしてはいけません。

客の中に増えている多くのコンテンツが全て落語の素材になってくる。これを扇子・手ぬぐいを小道具にやりきって

いかなくてはならない。

現代の落語は難しさにおいて江戸の比にはならない。「忠臣蔵」や「火消し」で持ちこたえた江戸落語よりも、はるかに

多くのコンテンツを表現していかなければならないのですからねぇ。途方に暮れることでしょう。

 

ですから、プラス指向で考えると今の落語家には自分のオリジナルな噺を作り上げられる可能性が非常に大きい

ということになります。もっともっと工夫をする。大御所と言われた師匠達がやってきたよりももっと多くの工夫を

落語に盛り込むことで新しい落語が、二十一世紀の落語ができていくのではないでしょうか。

小朝師匠が出てくる頃はそれがあったのに今は残念なことになっている。談志師匠もその当時はそう考えていた

はずなのに歳をとってしまった。円楽師匠も衰えています。志ん朝を失いました。希望だった古今亭右朝も失い。

次代を背負う噺家は誰なのでしょうか。

サラリーマンじゃあるまいし、定期人事異動のように二つ目、真打昇進を行う落語協会、落語芸術協会。

二つ目がだぶついているから真打を量産するという。・・・・・・いいのでしょうかね。これで。

裏事情では二つ目のほうが生活が安定するのだけれど、真打になると寄席への出演が少なくなって、独演会などの

ホール落語をひらいて集客できない真打は生活ができないという。寄席が少ないからとりをとる機会が

与えられない。真打とは名ばかりのものになってしまうようでは問題です。

実力を厳しく査定しようとする立川流、円楽党。とくに立川流のやり方は注目したいものです。

これからの落語家という商売は大変でね。音楽性や映像美術、音響効果、社会経済情勢、人生論など色々な要素に

精通していなくてはならないという「総合エンターテナー」という立場にある。

「ボードビリアン」という言葉が懐かしくなります。

 

 



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