桂 ざこば 師匠編 

 


 露の五郎師匠に続いて上方落語家登場。「朝丸」改め「ざこば」師匠。

 米朝門下で、枝雀師匠が兄弟子。TV番組「らくごのご」でお馴染み。

 三題噺で苦労してはる。上方落語を語るときは大阪弁で書きたい。

 大阪に暮らしていたことがあるので結構、大阪弁はいける。けど

 ワープロで書くと見事に変換でけへんねや。WORDに期待するのは

 無理やけど純粋な日本製ワープロソフトの「一太郎」には期待したい

 ことがある。日本人が皆、標準語でワープロに入力するとは決まって

 いないはず。お国訛りで入力してもちゃんと変換されるワープロで

 あって欲しいし、そんなワープロソフトがあってもいいのじゃないかと。

 話は横道にそれてしまったが、そない思いまへんか?

 落語のルーツは大阪にある。落語の祖は「三笑亭可楽」とされている。

 「さんしょは小粒でヒリリと辛い。」が語源とか。その頃は「三題噺」

 が中心。「鰍沢」などは円朝師匠の三題噺の傑作である。

 ざこば師匠のライブラリーは少ないが、出色なのは「一文笛」

 今現在惚れ込んでいる噺である。新作だけど古典として残ると思う。

 作者は米朝師匠です。機会があればぜひ聴いて欲しい。

 ざこば師匠のおはこといえば、「せをはやみ・・・」の「崇徳院」。

 「するが堪忍、なるが堪忍、あ堪忍」の「天災」。

 この「天災」という噺は、ざこば師匠が五代目柳朝師匠から習った

 ものだ。

 柳朝師匠の「天災」も見事なでき。ざこば師匠は独自の工夫を入れて

 演じた。その工夫とは大阪弁にて演じることであった。

 「そないなこと大したことあらへんやないか。」と思われるだろうが

 実は“難しおまっせ!”。落語ファンの方ならおわかりと思うが、

 例えば、文楽師匠の「船徳」を大阪弁でやろうとしたら、想像だに

 身の毛がよだつ。「大工調べ」の啖呵を大阪弁でやれまっか?

 「鮑のし」もそうだ。

 当然この逆もある。たとえば、「軒付け」「茶金」「立ち切れ線香」

 などは江戸弁ではいまいち。「鋳掛け屋」などもそうだ。

 江戸前の落語は本道のようにみえるが、やはり落語の祖は上方であろう。

 その意味で、ざこば師匠は次代のホープであると思う。

 東京の寄席では落語の間に漫才などの色物が入るが、大阪では漫才の

 間に落語が入る。それも高座の大きさがまるで違う。大阪の高座は

 広い。花月に行かれた人はわかると思う。だから笑いを多くとらなくて

 はならない。客席をシーーンとさせることは(*_*)なのだ。

 だから江戸落語のような人情噺をやってシーーンとさせる、客席を

 うならせる芸は受け入れられない素地がある。

 枝雀師匠は落語論の中で「落語は緊張の緩和」と言っている。

 ドラマ性を帯びた人情噺は「緊張の緩和」にならないのだろうか。

 正蔵師匠の「さみだれ坊主」などは実にエンディングがいいではないか。

 「緊張の緩和」だけではない落語の醍醐味がそこにある。

 枝雀師匠の言を否定するわけではない。上方と江戸の文化の違いという

 ことなのだろう。私は両方とも好きである。双方とも落語だと思う。

 どちらが良いか、どうのこうのという問題ではなく、どちらも噺の世界

 落語そのものなのだと思う。

 談志師匠はメディアを通した落語=放送落語というようなものを

 否定している。伝わらないものが多すぎると師匠は言う。

 演じ手ではない私には“伝わらないもの“とは何なのだろうか。

 寄席で聴く噺と、メディアを通じて聴く噺。確かに聞き手の状況は

 異なる。メディア側では寝そべったり、物を食べながらだったり、

 おしゃべりをしながらだったりする。電子媒体の向こうでは噺家が

 真剣に芸を競っている。この落差で“伝わらないもの“が生まれる

 ということか。

 

桂 ざこば

崇徳院

桂 ざこば

天災

桂 ざこば

一文笛

 

 「一文笛」については文章で伝える気にならない。「天災」について

 かたろうか。

 

「天災」・・・・・・・・・・・という噺

 

 禅の心に通じるテーマ。でも所詮、落語の世界。説教じみた展開はない。

 大阪の長屋に短気な男がいた。女房子供は勿論、親に迄手を掛けるという男。

 その男、ご隠居さんのところに駆け込んできて、離縁状を二枚書いて欲しいと

 頼んだ。女房に渡すなら一枚でいいはず、二枚とは?と思い、問いただしたとこ

 ろ、親に渡すという。親を離縁するなんて話はないので、咎めるが聞き入れよう

 としない。この男の性根を入れ替えねばと思い、心学者の「紅羅坊名丸」先生に

 紹介状を書き、短気男を行かせる。この先生、紹介状を読んで男を諭しにかける。

 「短気は損気」、「気にいらぬ風もあろうに柳かな。むっとして帰れば角の柳

 かな」、「孝行のしたい時分に親はなし、さればとて石に布団は着せられぬ」

 「堪忍のなるが堪忍は誰もする。ならぬ堪忍、するが堪忍。堪忍の袋を常に首に

  掛け、破れたら縫え、破れたら縫え。」などと例えで教えようとするが、一向

 に理解できない様子。そこで先生、一計を案じていろいろな場面を設定して

 理解させようとする。

 「表通りを歩いていると御店の前で水を蒔いている小僧さんに水を掛けられた

  その時、貴方ならどうされるかな」

 「そんなことはあたりまえだろう。さっそく小僧をぶんなぐってやる。それが

  男らしさというもんだ」

 「ほう、子供を殴るのが男らしさかな?」

 「いやちゃう、そやない。店に入っていって主人を殴ったるねん」

 「そうか、それでは、細い路地を歩いていたら屋根から瓦が落ちてきて、

  ぶつかった。あなたはどうなさるかな?河原を殴るのかな」

 「そりゃ、その家の者をどついたるねん」

 「その家が空き家だったらどうする」

 「そんなら、大家を呼び出して文句いうたる」

 「そうか、それでは、広い広い野原を歩いていると、急に雨が降ってきた。

  そばには雨宿りする木などない。ずぶぬれになった貴方はどうされるか」

 「にげるんだ」「逃げても雨は付いてくる」

 「そうか、しゃあないあきらめて濡れるしかないなあ」

 「おこらないのかな、ずぶぬれになってしもうて、天と喧嘩しないのかな?」

 「そやかて天に向かって怒ってもしゃあないやないか」

 「そこです。」「どこです?」・・・・(^0^)

 「店の小僧さんに水を掛けられても、屋根から落ちてきた河原にぶつかっても

  みな、天からの災い、即ち天災と思ってあきらめること。これが肝心なのじゃ

  おわかりかな」

 「ふーーん、なんかピンとこないけど、なんやら解ったような気がするで、

  腹がたったら天災と思えちゅうことやな。ええ話やないか。」

 得心したのかしなかったのか、男は自宅に帰っていった。

 帰ってみると長屋で一騒動あった後、どうやら隣の夫婦が一悶着あったらしい。

 先妻と本妻が喧嘩騒動になったとか。そこでかの男、隣の男にこう切り出す。

 「“たぬき”は“たぬき”、・・・わかるかな」

 「気にいらぬ風もあろうに柳かな。土手の柳は風まかせ・・おわかりかな」

 「こうこうの、こうこうの漬けたい時分に茄子はなし、、さればとて、きゅうり

  は生でかじられぬ・・・おわかりかな。わからんじゃろなあ」

 それじゃこれはどうじゃ。

 「堪忍のなるが堪忍・・・あ堪忍。ならぬ堪忍、するが堪忍。・・・あ堪忍

  破れたら堪忍、縫うが堪忍・・・おわかりかな」

 「わからんちゅうに。なんこっちゃか、さっぱりや」

 「わからんかなあ、おまえ。わしのいいたいことは、こういうこっちゃがな。

  おまえんとこは先妻が飛び込んできて喧嘩になったんやろ。だからな

  これを天が飛び込んできたと思えちゅうんやがな。すなわちこれを天災と

  思えちゅうことやがな。」

 「何、天災やと。アホこけ、わしんとこは先妻でもめとんのや」・・でオチ。

 

  「先妻」と「天災」をかけた“地口落とし”というオチ方だ。

 江戸弁の柳朝師匠のも絶品だが大阪弁のざこば師匠のものも良い。

 しつこういようだがぜひとも「一文笛」を聴いて欲しい

 

 

 


ご感想をお聞かせください。
タイトル
お名前(必須)
メールアドレス(必須)
ホームページURL(省略可)
ご感想
このホームページはどうですか?
すごく良い 良い 普通 改善の余地あり 評価できない